(※)初めて、北杜夫さんの文章にカットを入れたのは「どくとるマンボウ航海記」ではなく、杜夫さんが、まだ無名作家の頃、サントリーの「洋酒天国」で書いたエッセイでした。その絵を気に入っていた杜夫さんが、「どくとるマンボウ航海記」挿し絵にカンさんを選んでくれたそうです。どうもその時点では、カンさん本人は「洋酒天国」での仕事のことは覚えていなかったようですね。
 ●「北杜夫」を知ったあの時/佐々木侃司

東京と大阪がまだ遠かった昔のことでした。当時、私は寿屋(現・サントリー株式会社)で若手デザイナーとして一所懸命でした。こんな時、今のように便利でない電話が東京からかかって来ました。私は耳くその掃除を怠っていたので、全く聞きづらい電話でした。やっとそれが、中央公論社からの電話であり、電話をかけてる方が中央公論の宮脇さんであり、カットをお願い云々がかすかに判明した時、私は完全に興奮して、汗みどろになった受話器に「ハイ、ハイ」と連呼を続けるだけでした。
やがて、宮脇さんからゲラを受け取った時、それが『どくとるマンボウ航海記』というけったいなものにカットを画き入れることであり、そして、北杜夫という人の存在を初めて知ったのであります。(※)当時、私は極めて道徳的な青年でしたから、「うそか、まことか」ゲラの航海記にすっかりゆさぶられ、こんなにおもろすぎる本があっていいものだろうか、と何となく後めたさを感じたものです。
「まじめに画いたらあかんな」と私は洗脳されて、今思えば楽しいカット描きの連夜でした。くもの巣の張った自室で、なつかしのトリスをちびちびなめながらですから、なかなかにいい思い出です。
北杜夫という人の素性を全く知らないだけに、ただ、このゲラの文章から思えるのは、どことなく間の抜けた人柄ではないだろうか、どんな人かいな、と興味はつきなかったのです。 そして、カットを描き上げた時には、会ったこともないのになれなれしい親しみを感じ、親しみを感じすぎるために、この人は大作家にはなれないだろうと、私は自信を持って思い込んだのですから、恐ろしい話です。すなわち、大作家は常に風格をもって世間から浮き上がっているはずでしたから。
さて、『どくとるマンボウ航海記』が出版されました。文中に出て来るかわいらしい船の苦労多い航海と較べ、ジェット・エンジンを使っているような、高速販売増航跡です。私は夢心地で、本屋によっては、こっそりと本の中に収まっている私のカット達によく会いに行きました。彼らは生き生きとして私などには目もくれない感じでした。それでも私は冷静に北杜夫という作家の存在よりも、この売れ方はまぐれ現象だと判断していたのです。こんな時、大阪に北杜夫さんが現れました。
私の推測は正しく、思った通りに何となく頼りなく、昼日中から二人してだらしなく酒宴をおっぱじめたのですから、大作家の風格なんてみじんも無く、気のいいお人好しの兄貴といった風情です。私の方がでかい態度になって、地下鉄の駅を教えたり…。 一ヶ月後、私は打ちのめされました。北杜夫、芥川賞受賞です。「そんなあほな」と瞬間思い、「ああ雲の上へ昇りよった。」さびしかったです。
しかしどくとるマンボウは昆虫記で舞いおりて来ました。うれしかったけど私は用心深くなりました。「ケンキョ」な人はほんとにおそろしい。やさしいだけになおさら。


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