イラストレーター・佐々木侃司の生きた道です。

●株式会社寿屋 (現・サントリー株式会社)宣伝部宣伝技術課〜デザイン室出身 ●元大阪芸術大学/映像学科教授 ●本籍/兵庫県川西市


1946年/ ■少年期を過ごした大陸より、父の故郷である広島県山県郡八重町(現・千代田町)に引き揚げ。

1945・夏/ソ連軍少年兵との楽しいひととき
★業界デヴューの1957年
私は1933年生まれです。大陸で育ち、広島〜東京〜仁川(兵庫県西宮市)と流れ、今は兵庫・川西。2004年現在で71才となります。カガミを見るとギョッとするほど、体が腐敗しかかっているので、これからはおシャレするのです。 1957年、京都美大を卒展銀賞をもらって卒業。嗚呼あこがれのサントリー宣伝部へ!ところが…おいしい仕事は、柳原良平さん、開高健さんなど先輩方に独り占めされ、暗くマイナーな生活が続きました。しかし、イラストレーターへの道は捨てがたく、サントリーの「洋酒天国」でイラストを投稿し続け、やがて出版社などから目をつけられるようになりました。

1946年/ ■八重中学(現・千代田中学)に入学。同時に野球部に所属。在学中に残した「1試合6盗塁」は今なお、同校野球部の記録。
1952年/ ■八重高校卒業後、東京美大受験のため上京。あえなく玉砕。読売新聞社にてアルバイトをしながらの浪人生活。
■この浪人生活中にディズニーの「ファンタジア」に遭遇。“動く絵”に驚愕!「動かない絵を勉強しているオレは一体ナンなのか?いつか“動く絵”の仕事をできるようになりたい!」…その願いを叶えるに30年かかりました。
1953年/ ■京都市立美術大学(現・京都芸大)に入学。
1954年/ ■俊足・好守の二塁手として、京都準硬式6大学リーグで頭画をあらわす。
1956年/ ■在学中に日本宣伝美術会展初入選。
1957年/ ■京都市立美術大学・工芸科図案専攻を卒業、株式会社寿屋(現・サントリー)大阪本社宣伝部宣伝技術課に入社。同時に野球部とサッカー部に所属。
1958年/ ■日本宣伝美術会 会員推薦。
1960年/ ■カバーイラストと挿し絵を担当した、北杜夫さんの「どくとるマンボウ航海記」が中央公論社より発刊、ベストセラーに。[北杜夫&佐々木侃司]のコンビが誕生。

1960・北杜夫さんとの“昼間社内宴会”
★開運の1960年
北杜夫さんの依頼で「どくとるマンボウ航海記」にイラストを入れました。トリスを飲みながら徹夜して描いて…それがベストセラーになって、そして名前も売れて、北杜夫さんも舞い上がって大阪へ。勤務中のサントリー本社・地下レストランで“まっぴるま”からオムライス食べて、角瓶1本、ビール20本、2人で飲んで…北杜夫さんはイスからころげ落ちました。
こうして、昼はサントリー、夜中はよその仕事をホイホイ受け、ためた金で北の新地でブランデーをなめてゴージャスでありました。30倍の難関を2年連続で突破した日宣美展で、大阪地区会員となり、ますますのぼせ上がって、3日間無断欠勤して東京へ飛行機で行って、「セキスイ化学」のPR映画のてんとう虫のアニメを制作。もらったギャラが3万円也!サントリーの月給が1万円だったからホイホイでした。しかし3日間の無断欠勤で大目玉だったけど、何ともなかったです。
関西で一人、東京イラストレーターズクラブの会員にしてもらい、毎日毎日えぇ気分で…北杜夫さん、吉行淳之介さんから始まって、SFの眉村卓さんと組んだりで、イラスト三昧の日々でした。

1961年/ ●ご近所の報徳学園が初めて夏の甲子園大会出場。初戦の相手は強剛・倉敷工業。しかし互角の勝負で[0-0]のまま延長線へ。延長11回表、大量6点を奪われ、力つきたかに思われたが、その裏6点を取りかえし、12回裏に勝ち越しサヨナラゲーム。“逆転の報徳”誕生の瞬間を体験し、大興奮!
1962年/ ■前歯欠損のため、サッカー部レギュラーから降格。前歯未修繕のまま現在に至る。
1963年/ ■サントリー宣伝部の東京移転に伴い、大阪本社デザイン室に転属。
●上司・今津氏より、佐々木家一代目ワン子となる雌のマルチーズ犬を譲り受ける。映画「アニーよ銃をとれ」からアニー(Annie)と名付ける。Click
1964年/ ■日本漫画家協会入会。
1965年/ ■日本宣伝美術会 大阪地区委員就任。
1967年/ ■「日本のイラストレーション年鑑」入選。
■兵庫県川西市(源氏発祥の地、そして“ま〜さかりか〜ついだ金太郎”の金太郎さんのゆかりの地でもあり、その他諸々、日本史を語る上で非常に重要な地であります。)の大和団地に念願のマイホームを購入。コバルトブルーの瓦屋根にピンクの土壁!宅地開発直後の山奥住宅街で、電話は往復30分の山下郵便局呼び出し、最寄駅は徒歩15分の無人駅。当時、能勢電車は乗り遅れても、呼べば戻って来ることもタマにあり。
1968年/ ■東京イラストレーターズクラブ入会。
■NHK教育TV「みんなの歌―ぶんぬけた―」アニメーション制作。
1969年/ ■初の個展「虫」を大阪 今橋画廊にて開催。
1970年/ ■著作「初心者の絵画教室」が金園社出版より出版されるが、担当者の“夜逃げ”でギャラ入らず。
■個展「ベースボールイラストレーション」を大阪 今橋画廊にて開催。

仕事放り出し、社内スタジオ化
★「遊」「働」激動の70年代
そんなある日、サントリービールのPR映画制作のため、岩波映画のロケ隊スタッフがサントリー本社に来社。これが、前出のセキスイPR映画の担当スタッフだったため、「オ〜、ササキさんだーっ!助けてよ〜ササキさ〜ん」で、会社の仕事おっぽらかしてライトマンやらセットの手伝いやらで、それはそれで楽しい1日半でしたよ。夜は夜で「ササキさんのおごりだってよ!」とテッテイ的に飲まされましたですね。翌朝上司に呼ばれて「お前は岩波のヤツか!」と大目玉だったけど、何ともなかったです。

1971年/ ■日本パッケージデザイン協会技術部会に入会。
1972年/ ■大阪芸術大学・映像計画学科、非常勤講師に就任。
■日本パッケージデザイン展・酒類飲料品部門賞を受賞。
1975年/ ■大阪・正月漫画展が始まる。
■吉行淳之介氏の「ぼくふう人生ノート」(いんなあとりっぷ社)の装幀を担当。以後、同氏の作品の装幀を多数手掛ける。
●広島東洋カープ悲願のリーグ優勝達成!我が家の鯉たちとSKAL!
1977年/ ■かんべむさし氏の「ポトラッチ戦史」(講談社)の装幀を担当。[むさし&カン]の“今津線(阪急電車のローカル線)コンビ”誕生。
1978年/ ■サントリー株式会社を退社。同本社デザイン室嘱託勤務。
■日本デザイン団体協議会の中国友好訪問にて、念願の故郷訪問が実現。
■山本容朗氏の「文壇百話―ここだけの話」(潮出版社)の装幀を担当。以後、同氏の作品の装幀を多数担当。
■京都美大の先輩であり、サントリーデザイン室の先輩でもある故・菊池氏(元・甲子園出場球児)主催のゼニタラーズ(銭足らんズ)に二塁手として参加。背番号はソロバンの玉で表記。現役最期のシーズンを送る。
1979年/ ■大阪芸術大学・映像計画学科、助教授に就任。
■現代の日常生活に欠かせない「化学知識・理論」を一般に分かりやすく、同時に親しみやすく解説し、大好評を得た、近畿化学工業会編集・丸の内出版発行の「化学ア・ラ・カルト」の装幀・挿し絵を担当。
●愛犬アニー永眠。泣いて暮らす。Click
1980年/ ■開高健さん、北杜夫さん、柳原良平さん、吉行淳之介さんの呼び掛けにより、東京での個展「装画原画展」東京・銀座福家書店ギャラリーにて実現。
■前年、好評を得た「化学ア・ラ・カルト」の原画と葦原大人の原文を公開した2人展「葦原治・佐々木侃司―化学ア・ラ・カルト原画展」を大阪・番画廊にて開催。
■論文「動くまでのアニメーション小論」を発表。

依田先生の勘違いから映像計画学科・非常勤講師に就任
★依田義賢先生現わる!
日本の映画界を代表する脚本家、故・依田義賢氏。ハリウッドでも尊敬され、スターウォーズのヨーダのモデル(顔だけでなし、言うこと・仕草・その突発性…まさに本人そのもの)にもなりました。
●依田先生「トリスのアニメCFはお宅でっしゃろ?」
●カンさん「いえ、あれは先輩の柳原良平さんです…」
●依田先生「ウソゆわんでもヨロシ」
●カンさん「ア〜いや、そうじゃ…」
で、大阪芸大・映像計画学科でアニメ担当をやるはめになったですよ。それも急だったのでサントリーに内緒で行ってましたです。日頃、会社の仲間を夜な夜な連れて、北の新地で酒池肉林てなことだったのでみんな内緒にしてくれたですよ。しかし、ある日…佐治敬三社長がこう言いました。「どやカンさん!このごろの学生のセンスは?」ビックリしましたが、「クビにはならん」と思いましたですね。

1981年/ ■神戸ポートピア・松下館の「マルチアニメーション」の制作を担当。
■第1回アニメートピクチャーズ・フェスティバルを大阪ソニータワーにて開催・出品。
■社団法人 日本パッケージデザイン協会 監事に就任。
●ご近所から、メスの雑種犬を引き取ることに。後の作風に多大な影響を与えることとなる、佐々木家二代目ワン子は「チャベ(地野部)」と名付けられる。
1983年/ ■日本映像学会入会。
■日本映像学会発表「キャラクター造型のコンセプトについて」
■中国西安市で開催されたパケージ展に参加、講演会にて講演。
■竹内宏氏の「裏路地の経済学」(新潮文庫)の装幀を担当。以後、同氏の作品の装幀を多数担当。
1984年/ ■サントリー株式会社・大阪本社、嘱託勤務を退職。Click
■朝日カルチャーセンター千里教室にて「スケッチ講座」開講。
1985年/ ■大阪芸術大学・教授に就任。
●日航機墜落事故。サントリーデザイン室の後輩であり、同じ川西市大和のご近所仲間、そしてゼニタラーズのエース投手だった山登氏が同機に搭乗。後輩の死はつらい。
1986年/ ■朝日カルチャーセンター芦屋教室にて「スケッチ講座」開講。
1987年/ ■廃材の段ボールを使用した、段ボールアートによる個展「MASK PARTY」を大阪・茶屋町画廊にて開催。
■小泉武夫氏の「奇食珍食」(中央公論社)の挿し絵・装幀を担当。[食魔人&カンG]の“激烈タッグ”が遂に誕生。
1989年/ ■前回好評を得た、段ボールアートによる個展第二弾「MASK PARTY 2」を大阪・茶屋町画廊にて開催。
■吉田簑太郎(現・桐竹勘十郎)氏、藤田佐和子氏、風間裕氏と共にグループ展「文楽症候群」を大阪・ギャラリー田中にて開催。
■朝日カルチャーセンター川西教室にて「スケッチ講座」開講。
1990年/ ■大阪芸術大学・映像学科、学科長に就任。

第1期・酸素ボンベ時代は馬場酸素社製、2000年以降の第2期・酸素ボンベ時代は帝人製。「オレ歩かれへんネンデ」の一言で、面倒くさいことは人まかせにできるようになりました。
★肺がヘチマで、酸素ボンベ!
何だか息苦しいと思っていたら、肺がヘチマになってしまう間質性肺炎(肺繊維症)というやっかいな病気になってまして、酸素ボンベを相棒に生活するはめになったです。最初はさすがに、ちょっと落ち込みましたですね。「ア〜もうオレも最期か…」とね。でも学校の教務科に電話したら「そんなモン、電車乗ったらしまいでんがナ!大阪までたどり着いたらエレベーターもありまんがナ!エスカレーターもおまんがナ!手足動いとる間は働かんかい!」恫喝入れられまして、「なるほど、それもそうだな」と思い、明くるく生きてくことに決めましたですヨ。そうすると、ナカナカ都合のいいもので、家族はいたわってくれるし、出かける時は駅まで車で送ってくれるし、タクシー、ワンメーター乗ってもkeyさんに怒られなくなったし、学校では笑いをとるネタにも使えるしで、これは必須アイテムなのです。2003年で学校も定年となり、ナゾの隠居生活に入りましたが、まだまだ描きたい絵がいっぱいあるのです。おウチにいる時間がたくさん取れるようになったので、紙やキャンパスもいっぱい買い込みました。色々楽しみですヨ!

1991年/ ■北杜夫氏の「日米ワールドシリーズ」(実業之日本社)の装幀を担当。久し振りの杜夫さん作品。
1992年/ ■北杜夫氏の「どくとるマンボウ医局記」(中央公論文芸特集)の季刊連載スタート。
■文芸誌「東京春秋」表紙イラスト担当。
1993年/ ■個展「PARADE」を大阪 茶屋町画廊にて開催。
1994年/ ■大人気企画、小泉武夫先生のコラム「食あれば楽あり」(日本経済新聞・木曜日夕刊)がスタート。
1995年/ ■阪神淡路大震災。
1996年/ ●10月19日(土)愛犬チャベ永眠。泣いて暮らす。Click
1998年/ ■間質性肺炎(肺繊維症)の発症が発覚。しかもC型肝炎のオマケ付き。3月いっぱい中津済生会病院に入院。第1期・酸素ボンベ生活がスタート。
■9月下旬、脳内出血で中津済生会病院に入院。
■大阪芸術大学・映像学科・学科長を辞任。
1999年/ ●大阪・本町のコピーショップの社長さんを通じて、堺のIさんより雑種犬(何が混ざっているのか見当がつかない位の雑種)をもらい受ける。佐々木家三代目ワン子は「千代」と名付けられる。ビールが大好き!
■経過良好、第1期酸素ボンベ生活終了。
2000年/ ■大阪芸術大学セミナー「マンガ〜CGアニメまで」(大阪府立文化情報センター)の講師を担当。
■8月、腎不全で中津済生会病院に入院。
■「マンガ文化論テキスト」(大阪芸術大学・通信教育開設に向けて)を執筆。
■経過悪化、第2期酸素ボンベ生活スタート。
2001年/ ■個展「HOPS SKAL! SKAL! 漫画展」を大阪 茶屋町画廊にて開催。大作!パノラマ作品群!最期の個展となる。
2003年/ ■大阪芸術大学を定年退職。週1回の非常勤講師を務めながらのナゾの隠居生活へ。
■朝日カルチャーセンター千里教室の「スケッチ講座」、長引く不景気のあおりも受け、受講生激減。体力的問題もありちょうど良い潮時。閉講。
■恒例の「大阪正月漫画展」に「酒呑童寺シリーズ」出品。キャリア最高傑作の評価あり。
■次回個展へ向けての新シリーズ「酒盛り鬼が島群島」製作スタート。2枚着色完成、1枚未着色。Click
■上記シリーズに並行してAhoCityの延長上シリーズ(?)「 Cosmos City & Gardenn City」製作スタート。
■NPO法人・関西クリエイターズネットワークのエージェントにより、浪華 茶臼山 堀越神社との絶妙コラボレイトが実現。将来が楽しみ。
2004年/ ■9月、腎臓数値の悪化により「人工透析」敢行の決定。10日〜2週間の予定で透析用の準備入院。結果的にこれが愛する我が家、安住の地兵庫県川西市と愛犬「千代」との最期の別れとなる。
■10月、経過良好。しかし突然の間質性肺炎の悪化。止むなく、これまで使用を避けていたステロイド剤を投与、長期入院へ。
2005年/ ■1月10日、ヤキイモ到着!翌日の朝食は、それをおかゆに入れて、大好きなイモガユ(最期の御馳走!)
■1月24日、午前3時10分…佐々木侃司永眠。Click

★日本パッケージデザイン協会の追悼特集
日本パッケージデザイン協会の会報誌「N&R(News And Report)」(写真/左)にカンさんの追悼記事が掲載されました。
■左の画像をclickして、どうぞご覧ください。


●佐々木侃司
 /受注産業家
●享年72歳
★嗚呼イラストレーターより一部抜粋
イラストレーターには、単に絵が描けるだけでなく、いろいろな物体や心象風景を描き分ける能力が求められます。例えば『金魚がタコを食うので、金魚を飼っているタコ焼き屋が倒産した』という状況。「金魚鉢における非日常性」「倒産するタコ焼き屋の悲しみ」を絵画として、どう構成表現するかを「アホらしい」と思わず耐えて創作しなければならないのです。笑い事ではないのです。イラストレーターは受注産業なのです…。
納入したイラストが「OK」になり、ホッとしたイラストレーターが久し振りにバーのカウンターに落ち着いた時、そのバーに電話が追いかけて来て、「先程のイラストに部分クレームが入ったので至急修正して欲しい」…受話器を持ったまま血の気の引いて行く彼の顔…フリーランサーのイラストレーターは泣いてはいけないのです。オン・ザ・ロックを口に含むと「ほなら、チョット行ってくるワ」と彼は出て行きました。
イラストレーターはかっこイイのです。

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